幼子、宇宙に孵る|《2001年宇宙の旅》

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スタンリー・キューブリックの《2001年宇宙の旅》(2001: A Space Odyssey)を観た記録です。

以前、TVで放映されていたのをチラチラと流し見したことはあったが、ちゃんと見るのは初めてだ。今回知ったが、映画好きの分水嶺ともなる作品と言われているらしい。終わってみれば、そりゃあそうだろうなと。エンターテインメント作品ではないし、どちらかといえば前衛という言葉のほうがしっくりくる。ジャンルとすればSFなのだろうけど、それにしてもだな。1968年の映画ということで、CGは無いに等しいだろう。ミニチュアやらセットやら撮影の工夫やらで無限の空間を演出する、言葉にならない遠大さだね。

アート系の作品というわけでもなかろうに、これだけ台詞の少ない映画も少ないのではないか。どうなのだろう。全体の前後の20分ずつは台詞がないし、合間にも台詞のないシーンが多い。150分くらいの半分くらいは台詞がないかもしれない。また、緊迫感のあるシーンはそれなりに多いとはいえ、派手なシーンなども特にない。

時代背景はどうなのか。自分の観た映画という範囲にはなるが、70年代前後はSF映画の本格化する時代とは言えるようだし、SFだからこそだろうけれど、幻想的なイメージを再現するような映像が多用されるケースは多かったのではないか。本作も御多分に漏れないとは言えそうだ。その加減がちょっとおかしいというだけで。

実はキューブリックの作品って《シャイニング》しかまともに観たことなかったのだが、この人の作品の本質って、恐怖心をいかに煽るかみたいなところにあるのだろうなと。ってデビュー作が《恐怖と欲望》というド直球のタイトルなんだね。

で、それがまた地味なんだよね。宇宙に放り出されたフランクを回収するためにデヴィッドが探査艇に乗り込む。事態が進行する合間に宇宙船内の探査艇ブースが何度か映される。なんのこっちゃと思うが、要するにスーツは無くなっている(デヴィッドが着用)のにヘルメットは残されたままなのだ。

サラーッと流しちゃえば、結局このこと自体も決定的な破滅にはつながらないので、大したことないのだが、ふと気づいてしまうと起きていることの不和、次に予想されることの不気味さ、不安が掻き立てられる。これは、監督の真骨頂なのではないかしら(物知り顔)。

不気味なHALの赤ランプもそうだが、しかし、ここは逆説的に思うことがある。当世こそAIの急激な発展もあり、あり得ることとしての身近さが強まっているが(これ自体がアーサー・C・クラークの凄さだが)、本作の公開当時にはHAL、もとい高度な知性を持ったAIの不気味さを理解できない人々もかなりいたんじゃないかな、と思わなくもない。

ラストの解釈というのは定まってはいるのだろうけど、モノリス(を作った人たち)の倫理観も面白くて、デヴィッドの進化を老衰するまでキャンセルしてくれているんだよな。これも原作のクラークがスゴイというに尽きる気がするし、原作を読んでないので何とも言えないが、また奇妙な画面となっており、困惑もドキドキが止まらない。

しかし、Odyssey というくらいなので、あれなんですな。「オデュッセイア」が意識されているに決まっており、孤独に宇宙を彷徨ったデヴィッドは得るものを得て、最後は地球に還ってきたというのがラストなんだろうけど、逆にこれは古典ギリシャなどに馴染みのある人たちにとっては定番的な終わり方なんだろう。

なお、午前十時の映画祭で上映されているらしく、劇場には行けなかったので、自宅で観た。やっぱり生成AI関連のネタとして取り上げられたのだろうか。その有無にかかわらず、という可能性も全然あるワケだけど。

全然、快適そうじゃないけど、やっぱり宇宙旅行って憧れるわね。

なお、Xでたまたま見かけたが、本作、以下のカナダの科学映画の影響も大きいらしい。こちらは1960年ということなので、さらに時代を遡る。なるほどなぁ。30分以内でさくっと宇宙の面白さを伝える、単純に素敵な作品だし、この映像の撮影もかなりこだわり抜かれているように思える。