ひとは道づれ、世はかなげ|《ブゴニア》(BUGONIA)
ヨルゴス・ランティモス監督の作品《ブゴニア》(BUGONIA)を観てきた。
監督の前作となる《憐みの3章》を見れていないので、直近の変化のほどはわからない。が、今回は悪名高い(誉め言葉)アリ・アスターがプロデュース。これも未見だが悪名高い《メニュー》(2023)のウィル・トレイシー(脚本)が参加している。また、原作は《地球を守れ!》(2003、韓国、チャン・ジュヌァン)というB級ブラック・コメディSFだそうだ。
言わんでか、お膳立ては整っている。
ところで、ベゴニア(Begonia)という花がある。本作の冒頭とエンディングのカットで映される花は此れと思われ、いわゆる蜜源植物と呼ばれる種類らしい。ミツバチが集まるのだ。
じゃあ「BUGONIA」って何なのかというと、これはヨルゴスの地元、ギリシャ神話に登場するモチーフで「牛から生まれたもの」を意味するそうだ。「死んだ牛の死骸からミツバチが自然発生する」といった伝承があるようで、まぁ、そのままだ。が、奇妙な符合を感じる。
そう、「ベゴニア」と「ブゴニア」の音が似ているので、ベゴニアの語源はブゴニアか? と思いきや、どうやらそうではない。この花を発見した植物学者:シャルル・プリュミエが、パトロンの “Michel Bégon”(ミシェル・ベーゴン)から名付けたらしい。ほんならと “Bégon” の語源が気になるところだが、やはり直接のつながりはないようである。
さて、本作の感想のうち、ちゃんとまとまったものに未だ目を通してはいないが、アメリカの分断だとか、B級映画だとか、陰謀論がとかいったキーワードは何度か目にした。どれもその通りなんだろうけど、その流れに乗っても面白くないので、陰謀論まわりは少しばかりか踏み込まざるを得ないが、そのへんの話はできるだけ避けて書き散らしたい。
ちょっとだけ、ブゴニアとベゴニアの話に戻ると、そういう意味では、本作のタイトルとベゴニアの花の奇妙な一致(類似)も陰謀論的な議論にかかるところはあると思う。少なくとも、製作陣は意図してやっている。要するに、なんら関連性の認められないところに、あるはずのない関係を見出すのが陰謀論的なフレームであって、先ほどのように、私もそれに沿うように考えてしまっていた。また実際、音が似ているからと同語源や関連のある事物だろうと思われても、実はそうでない例は多い。何事も安易に受け取るのは危険だという教訓だね。
真摯なブラックジョークを真正面から受け止める
元ネタがB級映画ということもあるし、これがヨルゴス・ランティモスの真骨頂ということもあるのだろうけど、とりあえず、すべてはブラックジョークに過ぎない。それを大真面目に贅沢な構成でやっているから、なんだかマジメな問題に見えてくる。でも結局ジョークなので、その笑いや驚きの如何というところに目がいきやすい。
なんだかB級映画な終わり方でガッカリした、という意見はいくつか見たけど、それは私は《哀れなるものたち》で感じたことだったので、逆にきっぱりとアホだとわかる終わり方をしたこちらのほうが好感触ではあった。
逆に、風刺なのかメタ風刺なのかわからなかった《哀れなるものたち》の終わり方に比べ、本作はバカな終わり方をしたけれど、それが「バカだな」で終わるのか? というフックをかけている。なぜならば、バカはバカのまま、しかしバカではなかったからだ。
私が要点にしたいのはここである。ミシェルは、クライマックスを迎える中盤でドンを連れていくといった。ドンはミシェルの発言を信じたとしつつ、テディにありがとうと伝えてくれと言いながら、銃口を向けた。これは、テディにとってもミシェルにとっても計算外といえる出来事だったろう。作品最後の転換点であった。
アンドロメダ人は現生地球人を制御できないと捉えていた。それは正しい(とされた)。上記の通り、ミシェルはドンを制御できなかった(そりゃそうなんだけど)。でもなんで、ドンが作中であのような選択をとったのか。これはテディにもミシェルにも説明できないだろうし、我々も想像するしかない。
シンプルに言えば、ドンはテディの言うことを信じていなかったし、最後のミシェルの誘いも信じていなかったに過ぎない。これも、考えなくても当たり前のことだが…(でもそうじゃなかった)。ドンはおそらく、生来、世界から見放されて育ってきていた。そこから救ったのがテディだった。そのテディは母の病によって世界から見放された。ここにはギャップはある。
個々の人間の絶望に差をつけることに意味は(ほぼ)ないが、テディはおろか、究極的にはミシェルにすらドンは救えなかったことになる。テディ(の母)は救える(はずだった)のにである。また、こう考えると、最後のミシェルの決断のキーが、ドンの選択の帰結だったと言っても不自然さはなさそうだ。
このとき同時に、ということは、ミシェルはドンを本気で連れて行こうとしていた、と考えても不自然ではなくなるのではないか。ということは、である。
テディはどうしてミシェルに同行しようとしたか
本作、最後まで観ると、ミシェルは狂言回しであったとわかる。また、テディとドン、どちらが主役かは判断しづらいが、テディであると考えたほうがわかりやすい。クライマックスの直前、屋敷でのテディとミシェルの最後のやり取りはオミットされており、経緯は想像するしかない。もはやミシェルの掌で踊ることになったテディだが、ではなぜ彼はさも対等かのようにミシェルの移動に同行しようとなったのか。
ミシェルが自分の出自を認めたことで、彼はミシェルを信じた。が、それは1回、凍結防止液事件で無効になったはずである。では、彼の信憑を裏付けるやり取りが他にあったのだろうか? それくらいしか考えようはない。一方、ミシェルはミシェルで、彼を連れて行ってどういう勝算があったのか。あるいは他の意図は?
ミシェルについては、単純にそれは贖罪に過ぎないのではないか。テディの視点からすれば、ミシェルの関連によって彼はおそらく3名、大事な人を失っている。うち1名については何とも言いがたいが。彼女は当然のことながらそれを理解している。そしてテディについての贖罪はもちろんのこと、言うまでもなく直近にはドンへのそれがある。ドンの結末は、彼女の最大の失敗とも言い得るだろう。
ではテディはどうか。「ドンをあとから連れていく」ということも言っていたので、もしかしたら復活させられると言われたのかもしれない。また、その可能性が真でも偽でもいいが、ミシェルがテディを同行させると決めたことには、変わりない。
ドンも母も救える(かもしれない)から彼はミシェルに同行しようとしたのか。それだけなのか。そもそも、彼は地球がおかしくなっていることを問題視していた。そしてそれを救えるのはミシェルたちしかいないと。この世界の正義を問う心は既に失っていたか?あるいはもともと無かったか?
これも想像でしかないが、そんなことはなかろう。
また振り返るが、ミシェルは時間稼ぎも兼ねて、嘘をついて凍結防止液事件を起こした。テディはそれに巻き込まれて母を失った。この時点でテディはミシェルを信じる理由を失っていいはずだし、極個人レベルでは目的未達で終わっていいハズだった。
が、繰り返すように伏せられたやり取りを経たうえで、やはり彼は彼女を信じ、同行することを決めたのである。こういうのを信頼とか共犯とか言うのだろうが、ようやくテディとミシェルの間になんかしらの関係が構築されたのがクライマックスの会議室事件直前の状況なのだ。
で、あんな結末になった。最後、ミシェルは泣いていたように見えた。計画の失敗の涙であったかもしれないし、人間的な、別れの涙でもあったかもしれない。
ベゴニアがあれば十分じゃないの
先ほどと逆のことを言うが、本作は主人公をドンとして見ないと、本領を発揮しないのではないか。そしてそれは別に誰も望んでいないだろうけど。
ドンのメッセージのとおり、彼はテディに感謝を述べていたし、それで十分に幸せだったんだろう。テディがドンを巻き込んだ、という構図を否定はできないが、ドンは彼の役に立てること自体に喜びや生きる意味をも感じていたのだろうから、ここにはアポリアがある。
作品の構造上、テディの苦しみがフィーチャーされているが、これも述べてきたように、ミシェルは多重的に救済に失敗しており、劇中でのその最たるものがドンの選んだ道だろう。その結果が、あの虚しいカットの連続なのだから皮肉が利いている。
「ひと1人の命は地球よりも重い」(意訳)という有名な文言があるが、それをミシェル、テディはそれぞれ作中で、失うことで体験している。で、結果があれなのだ。
ブゴニアはないかもしれないが、ベゴニアはあるんで、それで充分じゃないでしょうか。ドンが望んだことって、並ひとりであるし、下手したら現状維持的だし、もしかしたら誰の苦しみも解決しないかもだけど、そういう折り合いのうえにモノゴトは成り立っているという考え方も、もしかしたらあるかもしれない。
「陰謀論を信じていない」「宇宙人も信じていない」「救済も信じていない」という意味では、ドンの存在はは私たちが信じる、ごく普通の私たち自身とも言える。しかし同時に、私たちはおそらくドンのような選択をするべきではない。
ということは、ドンの立場を受け入れつつ、この困難を乗り越えていかにゃならん。
アンドロメダ人に愛を込めて。
その他のことなど
- 母が浮くのはなんでなんだろうな。あくまでテディの心象風景と断じれば簡単なんだけど、少なくとも彼にとってはあのイメージは真実で、考えてみても面白いかもね。
- しかし、森に囲まれた街の中を泣きながら自転車で駆けていくテディは最高でしたね。これがヨルゴ・スランティモスよ。
- あの終わり方、美とも愚ともつかないあの図の無駄さ加減がいい。冷静になれる。もし世界があんなにキレイに終わるんなら、誰も苦労しないのである。