究極に淡麗な下品さを味わう|《ソドムの市》

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《ソドムの市》を観る。カルト的映画だというのは何となく知ってて、大して興味もなかったが、時間の都合があったので飛び込んで見てきた。原題は “Salò o le 120 giornate di Sodoma”だそうで、原作の小説の日本語タイトルは「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」だそうなので、かなりの翻案というか、まぁ、ね。

ここまで直截な表現がなされるとは思ってなかったので終始苦笑いというか気を放して観ることになったけど、なにがどうして撮ろうとなったのかね。と、Wikipediaの記述に従うとそもそも監督のピエル・パオロ・パゾリーニは後入りで、企画当初はB級ポルノの予定だったとか。それが結局は思想性の入り交じった謎作品になったと。

そもそも別にファシストであることと嗜虐趣味があることは一致しないだろうから、この舞台設定は人間を人間として扱わないことの喩えでしかないのだが、それにしたってこの謎空間が成立するとはとても思えず、しかし、荒唐無稽だからこそ成り立つシチュエーションではあるし、人間の想像力は無限大であることだなぁ。

食事がどうのこうのというシーンで、そういえば原作はサドだったかなと気づいたのだが、そもそも読んだことない。古い友人に言づてで耳にしたのが本作の情報だったような気もする。あいつはどうやってこの作品を鑑賞したんだろうな、などと余計なことを考え始める。

この映画の舞台に使われた屋敷も不幸なことだなぁと思いながら調べてみると、どうやら現存しているらしい。バロック様式の邸宅だそうだ。いまは笑い話で済むかもしれないが、いかんせん監督が殺害されるくらいにはピリピリしていた時代においてはどういう立ち位置だったんだろうか…と思ったが、現代と異なり、ロケ地なんて簡単にわかりっこないか。

扱っている内容や表現は置いておくとしても流石に映画としてはちゃんとしていると思われ、そう感じたポイントをいくつか挙げておく。まずは、大した伏線でもないけれども屋敷に到着したときの騒動でメイドの女性と思わせぶりなカットがあるが、後半にちゃんと生かされていた。あそこの一連の流れも滑稽で面白かった。

ピアニストの女性、被害者の少年少女らを覗くとおそらく相対的なまともなのは彼女だけであった。もともと作中の劇伴のほとんどは彼女の演奏で成り立っており(と思われる。音楽監督はかのエンニオ・モリコーネだが)、要するに話を進めるには必要な人物で、2回目の結婚式のシーンでは(劇中の)アドリブでコントをやってみせるなど、活躍しっぱなしである。

そういうことを考えながら観ていたら、予想通りというか、彼女が演奏を止めるということは、どういうことかという正しくその意味通りのクライマックスでもの悲しいやら満足感が生じるやらで此方の感情もグチャグチャになりかねない。名演でした。

屋敷の構造が生かされた撮影、嫉妬しちゃうね。1階中央の広間、両脇にある生活室(適当に名付けた)、2階の広間、寝室、食堂、階段などなど、知りたくもないのに何となく構造がわかるようになっている。この映画が嚆矢ということもないだろうが、影響を受けた作品はいくつもあるんじゃないかと思わなくもない。

個人的には、お尻がどうのこうのという展開にて準備を待つ大扉と階段のカットが妙にキマッてて悔しかった。なんなら1番印象に残っているかもしれない。クライマックスの惨劇を居室から眺める最高判事(かな?)の横顔を映したカットもカッコよかったわね。

あとは4人の悪の塊を演じた俳優たち。どいつもこいつもちゃんと気持ち悪くて凄いね。

ちゃんとした映画なんだよな…。

余談というか、観る前に得たなんらかの情報の影響か、自分で感じたことか定かではないが、昨年かなにかの映画《関心領域》のやっていることがまるで似ており、言及している人もあまりいないので、後者なのかなぁ。

《関心領域》の感想はうまく言語化できずにいるままなのだが、結局あれは鑑賞者の日常性に埋もれていかざるを得ないので、感触が難しかった。この作品などの体験を前提にすれば、あの作品のやりたかったことも理解はできるわね。いや、それはもともとわかっているんだけどさ。