Search Aruhito

極めて個人的な会話には魅力がない

他人のAI出力文にそそられないのはなぜ?答えを知ったマラソン中継ほど退屈なものはない。人が本当に求めているのは「正解」ではなく「迷う道中」なのかも。そんな思考の迷走にAIを1滴垂らした、人類による人類のための試行錯誤。

このブログでまとまった文章にはしていない気はするが、①他人と生成AIとの直接のやり取り、あるいは、②他人が生成AIから取得した文書(全文の生成、あるいはかなりの部分の補助)、これらにはまるで魅力を感じない。いや、気づくこともなく読み通すケースも背後には生じているだろうけれど。

なので私は手間を惜しむとき、その不具合を飲み込むつもり以外では、そのままのコピペを対人では極力減らすようにしている。生成AIとの距離感としても、そこまで問題は無かろう(電気代の問題は依然として大きい)。

で、掲題の内容になるが、私たちって基本的には関連性ゼロのまるで他人の出来事や考えごと、興味・関心には魅力を感じないのではないか。「否、魅力はある」という場合、揚げ足取りをするようで申し訳ないが、関連性を見出した結果に過ぎないのだろうという話なのだ。

おもしろいのは、逆説的に①②の文章は自分向けじゃないな、と強い嗅覚が働いて読み飛ばす、または無視するインセンティブが強く働くことだ。私はそれを、自分に向けられた文章だと感じづらいのだ。もともと興味があるハズの分野や内容について、でもである。

どうしてこういうことが起こるのか?

あるいは、仮に誰か(以降、太郎)が生成AI(以降、次郎)になんらかのプロンプトを投げて、その回答が誰にも共有したい魅力的なものだった場合にせよ、本来に共有されるべきはプロンプトの内容の方なのではないか?

太郎がすっごい興味深い疑問、論点を持っている。それについての詳らかな説明や考察、その発展を知りたいを我々は感じる。しかし実は、それを聴くにしても太郎本人の口や筆致から知りたいのであって、なんなら誰でもアクセスできる(いわば万能の)次郎からの別意見など挟み込みたくないのだ。

これは映画ドラえもんに出木杉が登場できない問題と相似ではないか?

生成AI時代の我々に残されているのは「新たな概念の開発である」といった意見を最近目にした。なんてことはない、私も次郎とチャットしているときに目の前の問題のあらたな論点や発展の確認をしてきたことがあるし、萌芽を感じることもある。

が、ご存じのとおり、良くも悪くも次郎は、知っていることだけを知っている。それは概ね一般レベルの知識では特に、間違いでないことがほとんどとなっているのが2026年秋の現在だ。

中身は知らないけれど答えが出ている。

極端なことを言えば、誰でも未解決の問題には挑みたい、それだけのことかもしれない。シェアして読んでいる新聞のクロスワードパズル、誰かがすでに答えを出していたら興ざめする、そんな感覚だろうか。


と、ここまで書いた内容の感想をChatGPTにもらうワケだ。

これが現代社会だ。

すると、適切な指摘が返ってくるんだ。我々(人間ら)が読みたいのは「プロンプトそのもの」というよりは、回答とのやり取りではないか? と。

まぁ、たしかに…。

チャットのやり取り、質問の掘り下げ、あるいは話が逸れる、話題転換、なんなら上述したような思わぬ掘り出し物があるかもしれない。太郎の思考の過程について触れることもできる。回答とは別の読みどころ、人間らしさがある(かもしれない)。

同時にメタ的には、この時点で次郎の意見を持ち込んでいるので、この文章の面白さが、当初の目論見から3割減(あくまで個人の体感)している可能性も考えている。そんなことを言っていたらキリがないのだが。

そういえば、わが父はマラソン中継を眺めるのが好きだが、録画であっても結果を先に知ってしまった場合は興味を失っていた。あるいは、クロスワードの例に近いが、取り組んでいるゲームについて求めてないアドバイスを横から口出しされるのもストレスだよね。

つまり我々は、解決したいのではなく、解決しつつありたいのかもしれない。

人生は苦痛で、その道中を楽しんでいるという比喩も、それほど誇張ではなくて真実なのではという実感が強まる。こんなところだ。

さて、この文章には、1文だけ生成AIの応答の一部をそのまま投げ込んだ。このことによって、本文は彼に掌握されてしまったといっても過言ないのである。さらば、人類。並ひと通りのオチとなり、ツラいです。

Share

Keep reading