足もとをおろそかにする|『ピカソmeetsポール・スミス遊び心の冒険へ』
巨匠の名声に身構えつつ作品群を巡るうち、時代ごとの変化よりも、線と面への執着、ぎこちない手足が気になってくる。展示演出の遊びも含め、天才像をありがたがるより、自分の目で違和感を拾うことが面白い展覧会。
なんとはなしに、国立新美術館で開催されていた《ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ》を観てきた。ピカソをテーマとした展示は人生初かもしれない。会場レイアウトをポール・スミスが手がけた点がポイントとのことだ。いつものように、セクション別の感想とする。
00 トロンプ・レスプリ(精神を欺くもの)
友人の葬儀の帰り道に道端に放置されていたチャリンコのハンドルとサドルがインスピレーションのもとであったとの紹介がなされていた。《牡牛の頭部》である。「08 闘牛」にもあったように、牛が好きだったんだろうなぁとなる(多分違うけど)。
掲題の「トロンプ・レスプリ」とは、フランス語で “trompe-l’esprit” 「心を騙す」というようなニュアンスらしい。いわゆるトリックアートを絵画技法として “trompe-l’œil” (目を騙す)と表現するようで、そのモジりだろうか。英語版の出品リストの題には、 “A Trick of the Mind” とある。
ハンドルとサドルが牡牛の頭部に見える作品はトリック・アートとも言えるだろうが、精神を欺くというのはどういうことかね。
01『ヴォーグ(流行)』中の芸術家
ファッション誌(VOGUE)の誌面に描き込んだイタズラ描きが展示されている。およそ女性のモデルの写真やイラストにしょーもなさげな内容のペンが入っている。スケベな学生が教科書にでも残すような内容で、面映ゆい感じすらある。1951年の雑誌のようだから、69歳のときのイタズラということになる勘定だけど、良くも悪くもお盛んである。
思い出すほど、後味が悪くなる展示だったな。展示することの悪趣味というか…。
02 青の憂鬱
1点だけ展示されている《男の肖像》。いままで彼の自画像だと思っていたが、そうではないらしい。ワハハ。本展はセクションの装飾にも力が入っているが、このブースは薄暗い。まさしく「青の憂鬱」といった体裁で、20代前半の貧しい時代を反映しているみたいだ。
セクションの説明に「エル・グレコから受け継いだ表現力あふれる線のデフォルメ」という文言があり、ちょっと得心いった。ピカソの絵って輪郭線の妙で成り立っていることが多いんじゃないかしら、と本展の作品を眺めていてよく思ったのだった。
03 バラ色の女性たち:《アヴィニョンの娘たち》への前奏曲
《アヴィニョンの娘たち》がパッと思い当たらないくらいにはピカソに興味がなく生きてきたが、なるほど、検索してみれば「あぁ、あれね」とはなる。展示されているのは1907年頃、20代中盤の習作、前段階ともいえるような実験作群と思われる。
《胸像》の女性かな、美しかったね。
セクションの説明に「古代イベリア美術」との出会いが、当時の傾向の実験に繋がったとあるので、調べてみたがピンと来ない。この説明は、後年の本人証言が大きな根拠らしいが、イベリア彫刻(の画像)を何点か眺めても、少なくとも素人目には「なるほど」とはならない。むしろアフリカの伝統的な芸術作品(絵画や彫刻)のほうが近く思えるね。
04 キュビスムの実験室
1910年前後の作品が並ぶ。《女の頭部(フェルナンド)の習作》はキュビスム未満という雰囲気があり、それが逆説的に絶妙なグロテスクさを生んでいるような気配で、顔面を覆うのが豊かな髪なのか、当人のボディなのかがわからず、それを狙って描かれているのか否かもわからない。
《ボート》がこのセクションでは気になりましたね。
ここまで見てきて、キュビスムの原理かもしれないが(!?)、パブロ・ピカソという人物は平面化の鬼なんだろうなという思いがよぎった。そういう印象から《ボート》は、版画あるいは浮世絵に近い平面化がある気がした。また、本作は全体の構図にもそれなりの意図があるようにも読めた。
05 アッサンブラージュとコラージュ
ワインの用語としての「アッサンブラージュ」は聞いたことあったが、美術用語にもあるのか。展示作品は、男性と男っぽいモチーフだらけだ。制作年代の幅も広い。
《ギター》という作品の制作地が「ジュアン=レ=パン」という土地らしく、気になって調べてみると、フランスはカンヌから東の海岸の土地で、このあたりで滞在、制作していた期間があったとか。ピカソの故郷にも似てるんかねと思ったりする。
で、まぁこのセクションでは《ギター》が気に入ったんだけど、《妊婦》という鋳造品もあり、忘れがたい。
06 古典主義の画家
紙と鉛筆のスケッチのような習作のような作品が多く展示されている。こういうのがやっぱり好きだね。
ここに至り、大胆なことに、ピカソって手足、特に足を描くことが苦手だったか? まるで興味がなかったか? という疑問にぶち当たる。《初聖体拝領者たち》はいわゆるちゃんとしたデッサン?のちゃんとした油彩画だが、男子の足元は黒一色でペタッと端的に表現されていて、あんまり手入れがされていない。うーん?となったのだ。
ほかの鉛筆画を見ても、やはり線の人だなと感じるが、顔と胴体のバランスがそんなに巧くいっているように見えない。逆に言うと、ふつうに描くことが容易に出来てしまうからこそ、なんらかの意図での崩しが入るのかな、ともなる。
07 子ども時代
《アルルカンに扮したパウロ》を見ると、やはり足にあまり興味がないのではないかという疑念が強まる。下絵で止まっている。また、《トラックの玩具で遊ぶ子ども》はすでにキュビスムといえる作品なので、足も大胆にデフォルメされている…、から参考にならないけれど、逆説的に彼の描く足って基本これが原型とすら言えるんじゃないかな。
足の立体感に興味を持てよ。いやそうではなくて、足が上手く描けない、だからこそキュビスムが成立したのだ、というような妄想である。
《人形を抱くマヤ》は見ることができてよかった。不気味さを超えた可愛らしさがある。個人的に気になったのは抱えている人形で、帽子の感じと髪色から中国人形なのかなと思ったが、そういうわけでもなさそうで、水夫とかなのかな?
08 闘牛
洞窟絵画っぽいタッチで闘牛を描く作品が並ぶ。闘牛を紹介する冊子の挿絵として制作されたようだ。こういうコミカルな、いわばコミックチックともいえるような描き方もサラッとやるのがピカソの天才性なんだろうか、説明は特になかった。
セクションに入ってすぐ右にある《コリーダ》(1923-24)は小さい作品だが、同セクション最後にあった《コリーダ:闘牛士の死》(1933)がほとんど同じ構図の作品かな。前者を昇華した感じかね…。
と思ったら、ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》〜筆はピカドールの槍、レイジング・ブルと白い運命|アートの聖書 さんの解説によると、1933年の帰省旅行でのインパクトから描かれたらしいので、時期とは合わないか。ずっと同じ構図を脳内に抱えていたという感じなのかね。
こちらのピカソ作品紹介サイトの情報は以下のようだだけど、こちらは撮影が古いのかな。色を全然再現できていない。
この作品の色遣いのビビッドさは、ほかのカテゴリーの作品にはほぼ感じられず、ここまで力強いと南米の画家なんかを思い出すが、どうでしょうか。ま、しかし調べてみると、同じ構図で抽象性の高い(キュビスム)な作品も数点描いているようで圧倒されますね。
09 ストライプ
安直なようだけど、楳図かずおは、ピカソと通底的にかなり似た部分があったんじゃないかなと、ストライプだからというのが連想の理由だけど、ふと思った。色への嗅覚に近いところがありそう。
それはそれとして、《帽子をかぶった女》(MP179)が圧倒的に美人だ。
《読書》が完成度も高く、わかりやすいんだろうし、《ストライプの帽子をかぶった女の胸像》(MP180)のほうが抽象度が高くてセクションの説明でも扱われていたが、時期的にも手法的にも《帽子をかぶった女》は、2作の中間くらいと思われる、この作品がどうしても気になった。ショップのポストカードには採用されておらず、無念。
この絵を見れただけで価値のある時間だった。
10 戦時中
《室内のフクロウ》は可愛い。ポストカードに採用されており、ズルい。
《ロブスターを持つ少年》の不気味さがよくわからない。《トラックの玩具で遊ぶ子ども》と似たような立て付けだが、ロブスターのほうが1941年、トラックの玩具が1953年だ。説明を信じる限りだと、1930~40年代の作品はおしなべて、暗く重いトーンや色遣いが多いとのことだ。
しかし、少年の絵には、そういったこと以上に、幼児男子の攻撃性みたいなのを垣間見てしまう。
11 一点もの
同じタイミングで眺めていたカップルの会話にあったが、このへんなどを見ると、すべての作品が同じ人間の仕事とは思えないところがある。だが、個人的には、やはり《甲冑を着た騎士と従者を描いた馬上槍試合の場面が装飾された皿》を見ると、線画のひとだなぁって思うのであった。
あと、イワシが美味しそう。
12《草上の昼食》
マネ《草上の昼食》の真似して、もといモチーフにした制作が並ぶ。セクションは森のせせらぎを表現するために緑の壁面と暗幕、風と水の音を鳴らしていた。小洒落ている。当日は豪雨だったので、その音かとビビった。
展示を振り返ってみると、ここには、マネ寄せ(いわゆるふつうの絵画)の描き方、彼特有のめちゃくちゃ抽象的(キュビスムというよりももっと線の連なりそのもの)な描き方、といった画家の手法と実験のグラデーションがもっともわかりやすいエリアだった。
13 ピカソのボーダーシャツ
《縞模様のセーターを着た男の胸像が装飾された窯の仕切り》がポツンと角に置いてあったが、なかなか不気味だ。とってつけたような展示だったように思われ(そんなことはないが)、もう少しスペースが確保されていれば、もっと眺めていたかった。
窯の仕切りになんでこんな絵を描いたのか。魔除け的な?
14 晩年:1969–1972
老年の人間らしい色彩感覚という感じがする。
というのも、先に挙げた楳図かずおの最晩年の展覧会に出品されていた制作であったり、最近公開された宮崎駿の最新のイラストであったり、色遣いが大胆というか原色感強めというか、似たようなバランスに収束していくように思える。専門的には知らんけど。
15 展覧会のピカソ
展示がうまい。本展にない作品など(無限にある)展覧会用ポスターをセクションの壁面いっぱいに埋めて、今回の展示がピカソの膨大な作品やイマジネーションのほんのひと欠片だと実感させられる仕組みになっている。
《枝を持つ牧神》が可愛かったわね。
まとめのような
総じて、ピカソのフルネームの一画目くらいはピカソ理解が進んだような気がした。
しかし、足と指を描くのが苦手だったんじゃないのかなという疑念が頭から離れない。なんなら《握り合う二つの手》にあったように、手もあんまりうまくないようにすら思う。平面化の鬼なのではと書いたのにはこの辺もかかわりがあり、上述の感想とも重なるが、逆説的に手足のようなパーツについては、立体を平面に落としこめていないのではないか。
極論すれば、そういう表現をピカソに求めるなという結論で終わるか、だからこそのキュビスムなのだという妄想に付き合ってもらうことになるが。
最後に冒頭の「精神を欺く」について考えてみると、ピカソという人は、見たものをそのまま描くより、別の形へ変換してしまうことに遊びを見出した人なのかもしれない。自転車の部品が牡牛になり、人体が面と線になる。そうして見る側まで、いつの間にかその見方に付き合わされる。