平和な棺桶をさがして|『関心領域』
アウシュビッツの隣には、きれいな庭園。小川のせせらぎに身を任せ、休日を楽しむ穏やかな家庭。その記録。聞こえるようで聞こえない呻き。あまりに美しい情景に、何も言うことはない。ほんとに何も言うことはない。何も聞こえないので。
2024年の上演期間の終盤くらいに劇場で観た。『関心領域』だが、テクニカルさに感動するのはいいにしても、テーマに対して成功しているとは思えなかったので悶々としていたが、それなりの形になったので感想メモを解放しておく。
問うとすれば、「日常化した悪意を纏った人間の日常」くらいが、本作を通して言い得ることではないか。積極的に情報を集めたわけではないが、本作品には原作にあたる小説があり、そちらはフィクションに寄せた作りだそうな。一方で、本作はなるべく現実の状況などを再現したらしい。
ついては「悪」についてなんだかんだと言う感想、評論のようなのが多いこと。どうしっちゃんだい? ひとつひとつを読めば、それは意味のある意見もあるだろうが「悪」をお題目のようにして、本作を評価するのは難しいのではないか。
当時、『オッペンハイマー』の発表時に日本では賛否両論みたいになっていた。本作にはそういう意見は見られない。声の大きい人がたまたま出ていないだけか、私たちは直接関係していないからか。そこにどんな違いがあるのか。加害者(とされる)側のフィクションは、それを戯画化したり矮小化したり、あまつさえ共感性を与えてはならないというような問題である。
まぁ、ホロコースト周りのフィクションなんて毎年のように制作、公開されて出回りすぎているんで、もはや並大抵の作品では素通りされるだけだろうし、そういう意味では本作(あるいは原作)のアプローチは見事だろう。
現実、ひどい事実がある。本作を通しては、ほのかに暗示される出来事、耳にも入れたくないうめき声、銃声、ホンマかいなとなってしまう装置の設計図と会議の内容などなど、なんとおそろしい出来事があった。
もちろん具体的に何が起きたかは大まかには歴史の授業で学ぶし、調べれば調べるほど凄惨な現実が突きつけられる。で、繰り返すように、これをテーマにしたドキュメンタリーもフィクションも山ほどある。本作もそのひとつとなった。
映画が始まると、しばらく暗転したまま、奇妙な音楽が流れはじめる。劇中でもしばしば流れ、映画の終わりでも流れる。SF作品っぽい音遣いというか(前作でも監督とタッグで音楽を担当した音響監督らしいが)、そういう音だ。
場内に満席の観客は、自分らのいる箱を意識せざるを得ず、そしてこれから見るソレが作りものであることを理解させられる。すると、ドイツかポーランドか知らぬが(ポーランドでしょう)、美しい森ときれいな川で遊ぶ家族が映される。
女主人とメイドらは、どこからか来た肌着類の交換会をはじめる。長男は金歯かなんかのコレクションをベッドサイドで眺めている。庭は綺麗だ。キレイすぎるくらいだ。
カメラは動かず、定点的に状況を観察するだけで、画面に感情はない。ゲーム『バイオ・ハザード』でも見てるんかなと思ったが、もうひとつ思い当たった。藤子・F・不二雄の短編『並平家の一日』だ。やはり家族を観察する作品だ。
目にした感想のひとつに「感情移入できない」旨の意見があったが、それはそうで、さらに言うと、本作の意図に乗り切れない、あるいは、そういう風にできているのが本作だろう。
また、ある感想には「モダンアートとして完璧すぎる」とあったが、それが誉め言葉にせよ、皮肉にせよ、もっとも適切な表現とも思われる。
やっていることは常軌を逸しているが、箱庭のなかの家族を単体で切りだせば、悪とは言い切れない。というよりも、わかりやすく言えば被害者と考えやすい。彼らの個々の生活、感情、行動はそれぞれ限定的にいえば存在は認められるべきだ、というのは意見として認めざるを得ないだろう。
たとえば、特に、女主人がおかしい。そのように現代的な私たちからは思えるのは、彼女の台詞にあったように、そして逆説的に、総統のいう理想的な生活、当世の当地の彼らにとっての究極がそこに体現されているからだ。あの世界のなかでは、彼女は理想を現実化している。疑うべき瑕疵がない。
このような仕掛けのなかで、それを眺める私たちが、何をか相対化できるのか。目の前の奇妙な画面を眺める以上の接触が、作品と私との間に生じうるのか、それがわからなかった。
たとえば、実在したという林檎の少女はサーモグラフィのような画面で、それもあくまで温度感のない、極力抑えた描写で演出されていた。緊張感もあったが、これも結局は本作の芸術性の部分に吸収されていたように感じる。
あるいはクライマックス付近、現在の、現実の展示室を映してみて、見てきたことをオーバーラップでもさせようという意図かしらんが、そういうカットが忍び込んでいた。これは逃げではないか? であれば、ドキュメンタリーでいいのではないか? なぜホンモノの援用が必要だったのか。
未曾有の虐殺に邁進した責任者のひとり、おぞましい事態が進行している施設、「その隣でその家族が(彼ら本人としては)あくまで幸せに生活していた」という事実を、実に見事に映像化した先に、何があるのかというと、今のところ腑に落ちる答えが出せない。
その不明瞭さこそが、問題提起であるというなら、それを指摘されてもなぁというのが本音で、どの事実と向き合えばいいのかまでは、やはり難しい。
また、「考えさせられる作品」で済ませるのも一筋縄ではいかない。だって「何も考えようがない」という話なので。なんなら人間個人の無力さと向き合って嘆かさせられる、でも私たちは概ね、そういう意図とは、そうさせられているとは気づかない。それを贅沢にもアウシュビッツを題材にしてみせた、という遠大な狙いの作品なのかもしれない。
あるいはただただ残酷な空間と日常がここまで隣接した状況を描くというだけなら、それはそれで贅沢な作品だなと思うが、やっぱり単にアート映画の枠に収まるのではないか。
ひとつだけ皮肉な演出なのだろうと気づいたのは、夫婦の寝室だったと記憶しているが、ベッドが離されていくんだっけかな。で、それが棺のように見えた。家族の変調のもっとも象徴的な描写だったと思うが、おしゃれなので匂わせくらいで終わったよね。
だので、現実の施設を用いる方法以外にも、僕ら自身を作品世界から突き放すか、あるいは現実に起きている問題へと引き寄せるか、いずれにせよ鑑賞者が自分自身の立ち位置を相対化する仕掛けが、もうひとつでもあるとよかったのではないか。
私たちこそ日常の聞き取りづらい音に耳をそばだてる必要がある、ということですかね。きれいに言うのならば。