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最後の世界で困った獣|『けものがいる』

交互する3つの時代。嘘っぽく不穏な過去と未来。ただ不穏な現代社会。人間とその本性、あるいは世界の安全と我々の安心を巡るモチーフを手がかりに、けものがどこにいるのか、いたのか、いるべきなのか否かを議論する。

2025年は4月末くらいの『けものがいる』を観た記録です。フランス(カナダ共作)の作品で、原題及び英題は《La Bête/The Beast》だそうだ。うーむ、邦題はよくやったと思う。

物語の枠組みがSFであることは事前に知っていたが、いざ蓋を開けてみると落ち着いた作風で、フランス映画の雰囲気と古いSF作品の空気が混ざったというか。直近で見たSF作品に照らせば『ソイレント・グリーン』が近い。うすら嘘っぽい世界観というかね。舞台は、1910年(パリ)、2014年(ロサンゼルス)、2044年(パリ)という3つの時代(世界)と思われ、それぞれで同じ魂?(DNAかしらんが)の人物:主役の2人が交錯する。

他の方たちの感想よろしく、序盤の揺蕩った展開にちょいと寝てしまい、2044年の設定の勘所を少し逃していると思われる。が、鑑賞の大勢には影響が無さそうなので、恥ずかしげもなく記録を公開することにした。事実誤認があったらすみませんね。

ついては、原作(翻訳)を取り寄せようと考えたが、ムリだね。80年代に発行された国書刊行会の作品集に収録されているらしく、つまり古書だが、最低価格でも5,000円くらいで取引されているとみえ、Amazonのマーケットプレイスではアホみたいなプレミア価格だ。図書館にはありそうだが、めんどくさい。というわけで、「生成AI君、出番ですよ」と、Grok3さんの要約が以下です。

主人公ジョン・マーチャーは、あるパーティーでメイ・バトラムという女性と再会し、過去に交わした会話を思い出す。かつてマーチャーは彼女に、自分には人生で何か特別で劇的な出来事、「密林の獣」のように突然現れる運命的な何かが待ち受けているという予感を語っていた。メイはその話を覚えており、2人は「獣」の正体を探るかのように親密な関係を築いていく。 しかし、マーチャーは「獣」を待ち続けるあまり、人生の可能性やメイとの深い関係を見過ごしてしまう。メイは彼の信念を支えつつ、徐々に自分の気持ちや健康を犠牲にしていく。物語が進むにつれ、マーチャーは「獣」が何であるかを理解するが、その気づきは遅すぎ、彼の人生は取り返しのつかない喪失感に包まれる。

なるほど、まずは主人公の性別が逆転しているようだ。「人生の他の可能性やメイとの深い関係を見過ごしてしまう」というのは、まさしく本映画で描かれていた。これで基本的な情報としては十分な気はするが、まぁ、詳細まで味わうと感触はかなり別の作品であるとはなりそうだな。やっぱり読んでみたいが。

映画のほうはというと、人間の感情をDNAレベルで浄化し、よい仕事に就かせるという設定は謎だが(序盤の説明の箇所を寝過ごしているワケではない)、どうにも世界観が『MATRIX』を彷彿とさせるというか、理想の社会、生活はすべて(現実であろうと夢想世界であろうと)AI、機械が与えてくれるというスタンスで、目新しさはない。ビッグブラザーよりはなんぼかマシな気もするが、大差ない気もする。

鳩とAI、獣と人形

「鳩は平和の象徴だが、部屋に入ると危険だ」みたいな台詞がどこかにあった。で、たしかに過去の幾つかのシーンにて鳩が、いやらしく主人公の周囲を荒らしていく。

それはそれとして、本作におけるもうひとつの平和の象徴というのは、AIに他ならない。2014年までは鳩もAIも人間社会への闖入者(自らが生み出したものとはいえ)であったが、2044年ではそうなっていない。むしろAIは支配者側だろう。

で、作中での獣についての説明はほぼ忘れたが、なにか暴発しかねない事態そのもの(あるいは獣)のような表現で言い表されていたように思う。というよりも原作のとおりに考えれば、発揮できなかった積極性のようなところなのだが。

映画を観た直接の感想としての私の解釈は、獣=(野生寄りの)人間性のようなものだ。「本能」でもいいと思う。情動に任せた愛でも欲でもいいけど、そういうもん。もう少し言うと、感情の向きを抑えこんだり、否定したりせずに受け入れて生きること、その志向性(が孕む危険性を含めて)を獣とも言い得るんだろう。原作にこのダブルミーニングがあるか不明だが、訪れなかった獣は、ずっと自分のなかに潜んでいた。

後付けではあるが、この解釈には大して間違いはなさそうだ。

ただ、少なくとも映画では、獣は危険というようには扱われていない。なので、そこにかかるカタルシスみたいなのは特に感じない。

で、まぁ、もうひとつのモチーフの人形について考えてみる。

1910年、2014年、2044年、それぞれに人形は登場する。とりえあず2014年の人形を、ただのターイングポイントとして扱うにしても、1910年と2044年のそれは立場がまったく逆転している。1910年の人形は幼児のオモチャだ。2044年、AIの社会はAIが人間をあやすために人形を用いている。まったく転倒している。まして、あたかも人形側が感情を有しているように、人間を欲する(接してくる)。

感情を捨てられない人間には、そういった対処が望ましいということだろう。そうやって従順にさせるのだ。いずれにしても、人間が作った平和は、究極的にはその平和を損なうように機能するようになっていく、当たり前のことのようだが、そういう寓話になっているのではないか。

で、繰り返すように、2044年の世界では、人間は人形化(感情を都合のいいように操作)されている。一方、2014年でガブリエルは没個性的なモデルである。しかも(顔面やボディの)整形を前提にしないと仕事がこない、生計が成り立たないという状態だ。ルイのこの時代での役回りは、もっと酷いもんだけど、いずれにせよ私たちの社会に一番近い時代なだけあって、そのリアリティも強い。

2014年はいわばターニングポイントなのだ、人間から人形への。

だから2044年の謎のクラブなどは、あれは1910年の人形のショールームみたいなものとも言える。人類の文化的遺産(音楽)を人形(去勢された人間)ごと展示している。なんか日本語の演歌みたいな曲が流れてましたね、光栄だなぁ。シチリア生まれのベルギー人歌手サルヴァトール・アダモのフランス語の曲《Tombe la neige》の日本語バージョンだそうです。 歌っているのは本人なんだな。

しかし、本作に本当に「けものはいる」だろうか

映画のメインビジュアルは主人公、つまるところガブリエル(天使の名前だけど)の影は天使だけど、同時に獣を秘めている(秘めていた)ワケだが、映画は獣性がもてあまされて、最終的には機能不全になるという裏返しなので、あんまり「けものがいる」感じがしない。

あー、なるほどな。2044年になってようやく運命の相手(かなり戯画化した表現になってしまうが)との再会が叶ったと自覚した瞬間(けものだ!)、相手のけものはすでに無くなっていたんだな。

我々はけものを失っていないか? 失いつつないか? というお話なんだろう。おフランスな映画だなぁ。

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