雨が降ることもなく|『テロリストのパラソル』
藤原伊織『テロリストのパラソル』を読む。知的な登場人物たち、独特の文体と展開のスマートさ、昭和の残滓を引きずる事件と人間関係。そして何より、物語を読み終えたあとに改めて響く「テロリストのパラソル」というタイトルについて。
Xで少し話題になっていた『テロリストのパラソル』を読んだのは2026年6月ごろか。
作者である藤原伊織を知らなかったが、経歴と本作の執筆事情を目にするだけで興味の湧かない人間はいないだろう。ハードボイルド小説はほとんど読まないが、古典的なSFで似たような語り口の作品は読んだことがあるので、そのへんの要素には違和感も少なく物語に入りこめた。
全体感として、まず言及しておきたいのが、登場人物がみんな知的であること。この特徴に気づいて、それらしい箇所に遭遇すると、ついつい笑ってしまった。というのも、会話において、物語の展開を捩じるような、けむに巻くような発言が登場人物の誰からもほぼ無く、そのストレスがない。逆に考えると、作者は会話で展開を混乱させるような余計な描写を避けているか、あるいはバカを描けないんだろうという謎の推測にまで及ぶ。バカを作中でうまく働かせるのって、面倒もしくは難しいんだろうなとなる。
文体も特徴的で、極力かんたんな表現で書いているように思わせられる。たとえば、会話をかなり独特に地の文に混ぜこむこともやる。似たような方法を多用する作家を知らないが、同じようにやるにしても成功させるのは難しそうだ。この独特の表現も慣れてくると小気味いいというか不思議なリズムとして楽しめる。
さて、物語だ、事件が生じる。主人公の島村は、とにかくあらゆるメディアから情報を参照して事件の闇を照らしていく。彼は逃亡生活を重ねる日陰の男なので、いかんせんそれ以外の方法がない。まるでホームレスの安楽椅子探偵(ぜんぜん各方面に動き回っているけど)みたいな感じがある。これはこれで(これも)面白い。
どうだろうか。本作はストーリー本体(十分面白いが)や結末よりも、ここに挙げた文章なり展開のスマートさなりが評価されているのではないかと想像してしまう。そうはいっても、事件自体もなかなか面白い。物語を通した登場人物全体のなかで(いろいろな意味で)狂っていない、狂わずに済んだのは主人公だけなんだよね。そしてそれは、主人公以外の登場人物にも、もちろん読者にも明らかだ。
こういう人物像については、昨今の(といってももう十数年か)ライトノベル界隈で定番化した「鈍感系」主人公があるが、その走りというか原型のひとつでもあるんだろう。アル中で草臥れているとはいえ、頭脳は明晰だし記憶力も抜群、バイオレンス沙汰にも強くて冷静さを崩すこともなく、なんとなく周囲の女性を惹きつける。なんでもござれです。感服です。
事件の真相付近について触れる
事件の背後にある設定にちょっと近いものを感じたのは、浦沢直樹(&原作者各位)の『パイナップルアーミー』や『マスターキートン』の諸エピソードだ。というか、本作のオチの一部を中盤くらいに予感できたのは『マスターキートン』に似た話があったからかもしれない。
80年代、90年代と日本国内が平和になるにつれて、さまざまな運動や暴動も鎮火していき、一方でそこからあぶれた人間がどうなるのか、どうなっていったのかを私は知らない。本作や上記に挙げた浦沢作品、あるいは他のサスペンスやハードボイルド小説などが扱う世界は、昭和末期に散った諸々の希望や夢、日本の外側にしか(少なくとも当時は)残らなくなっていくであろう暴力への、ある種の希望や応答なのかもしれないね、などと雑に言ってみる。
いや、結局現在だってバイオレンスな作品は無限にあるけれど、そこにはギャップがあるのではという補足をしておく。やくざ者は、ゲームでもマンガでもポピュラーなままだけど、現実、その存在は日に日に存在感を弱めている。また、ボクサー崩れとか喧嘩に強い探偵みたいなキャラクターは最近のフィクションではあんまりないのではないか。そんなに詳しくないけど(キムタクのゲームは暴力上等な探偵だったが。
タイトルがまたかっこいい
タイトルを作中に持ち込む手段も巧みで唸った。
タイトル案はいくつかあったらしい経緯をXのポストで目にしたけど、最終的には「テロリストのパラソル」である。なんか詩的でかっこいい。というか、詩なんだよな。そして、これはどういう意味なんやと思うけど、まさしくそれなんだもんな。ぐうの音も出ない。主人公を含めた関係者たちの背景事情と、このタイトルを含む詩のカラッとした雰囲気が生み出す効果が、またなんともいえない。
傘とは、基本的に雨から身を守るものではあるけれど、どこかしら攻撃性を潜めている気もする。傘を武器に使う小学生も多いし、フィクションでもよく武器になっている。また傘には、顔が隠れる、存在を薄くできるみたいなところがある。すなわち恐怖心を生むとまでは言わないが、雨を遮断する道具であるように、なにかしら距離を生むことを想起させる道具であることには一定の共感があるだろう。
本作に照らしていえば、このパラソルを差していたのは、どんな人間だったのか。それを詠んだのは誰かというとき、気の遠くなるような、眩暈に襲われるような感触が強まる。結局のところ彼らの心の向きというのは、それぞれがキレイな一方通行であって、それ自体で完成してしまっていたのだ。悲しいね。
島村はこの事実と、それが生み出した顛末に辿り着いて、ただ絶望するのか、それとも飄々と受け流して生きていくのか、はっきり言ってどちらであってほしくもないのが正直なところで、それに思いを巡らせるのが、楽しいのではないでしょうか。