今日もどこかで|『時には懺悔を』
家族とその酸っぱい事情を積み重ね、子供、責任、赦しを描く『時には懺悔を』。事件を解決する探偵自身の家庭は。「懺悔」とは誰が誰にするものなのか。人を赦すのは時間なのかもしれないですね。
ハードボイルド小説ブーム、というか手軽に楽しめるエンタメとしてありだなと小説に再帰している。ということで、Kindle Unlimitedで読める打海文三の『時には懺悔を』を読んだ。『テロリストのパラソル』を読んだのちのことである。
読み終わってから調べてみると、今年の夏、というか今月末に映画が公開されるらしい。なんとタイムリーなことでしょう。たしかに映画向きっちゃそうかもしれない。
事件は同期の探偵仲間が殺害された真相を追う主人公とその周辺の事情をちらつかせながら進展していくが、子供の存在と家族のありようが本作の楔となっている。
部分的に、かなり際どいテーマ選びをしているような気もするけど、それとなくハッピーエンドだし、エンターテインメントなので、これでいいのだとは思うが、(当たり前のことだが)よく考えなくても、重い内容が潜んでいることを隠しようもない。
メインの登場人物は5、6人くらいか、多く数えても10人はいないくらいだろう。そのうち、ただの独身、孤独の人物は1人しか登場しない。それを除いた人物たちは右も左も、さまざまな形態で家族を抱えている。これは当然のことでもあるが、これらの情報をそれぞれ多からずながらも示してくる作品は、案外貴重ではないか。
たとえば主人公:佐竹は、都内のマンションに妻と息子と暮らしているようだが、どちらともほぼ没交渉のようで、彼らは登場するものの作中では1言も台詞を発しない。彼らの役割は大したことないように感じるが、本作ではおそらく、これが作者が提示する90年代のくたびれた標準的な家族像で、この状態こそが主人公を(メイン)読者の視点に合わせうるんではないか。
とはいえ、あんまり儲かりそうもない一人所帯の探偵業で、家族2人を養えているのも凄いなと2020年代の読者としては思わないところがないでもない。調べもしないが、この頃にはもう少子化傾向は眼前にあったろうし、そう思うと、これは大げさだが、日本社会の少子化への時代を反映した作品とも考え得る(勇み足が過ぎる)。
そもそも、それぞれの家族にはそれぞれの物語があって、しかし、もちろん美しい話ばかりではなく、そんなのの大半はほとんどエンターテインメントにはならないだろう。酸いも甘いも、ではなくて、作中では酸っぱい話ばかりが積み重なっていく。でもそれが人生じゃん、みたいな一般解にもなるが、本作では子供達にもほとんど希望的な先行きは描かれない。
さてはて、日本社会は子供への包容力を大きくしたのか、小さくしたのか、あるいは歪にしたのか。それとは関係なしに、子供が減ることを社会的に選んだのか。もしくは、いずれでもあるのか。何とでも言いようはあるだろうけれど、主人公に引き付けて語り直せば、子供の未来は大人(作者)には語りえないというのも事実だろう。
タイトルについて考えたい
カッコいいけど、よくわからない。
誰が懺悔するのかというと、登場人物みんなだろうな。それぞれに抱えているものがあるからだ。で、誰に懺悔するのかという点になるが、うーん、子供に? とは直ぐに思いつくが、あんまりスマートな回答ともならない。親が子供に悪いことをした、で終わる話でもないからだ。
「懺悔」とはもともと仏教用語だろうし、あるいはキリスト教的なそれでもいいけど、つまり宗教的な悔恨や神への告白なのだろうことを前提にしたほうが、筋がいいのか? いや、そういう話でもないだろう。本作には神様なんぞカケラも出てこない。
さて、「時間が赦す」という言葉がある。これを援用するのが、もっともしっくりくるように思える。時間が過去の出来事を赦す、起きた事件のこれからも時間が解きほぐしていく。そういう話であるのではないか。
逆に、究極的には誰の責任でもないかもしれないが、ある出来事によって、誰かに痛みが生じる。それを癒すのもまた時間にほかならない。痛みの理由が能動的であれば、受動的であれ、そこには人間関係があり、それぞれの事情も心情も、もとのままではなく、移り変わって棘を失うか、その角を丸めているだろう。少なくとも本作においては時間の経過でそれを先鋭化させている人物はいないんだ。
また、「時には」という表現から「あるときには(懺悔する)」というような表現として拾うことも可能だろう。これを敷衍すると「あるときには懺悔をしない(あるいは必要のない)」ことも想定もできる。それは、読者向けに想定されているだろうか?
感想は終わる。
最後に。発端となった事件の原因がなにかも明かされないが、それもまたそれだろうか。繰り返しになるが主人公の身の周りの人々に起きた不幸や不和は、ほとんどが原因がハッキリしている。それはそうだ。でなければ、語りようがない。
一方で、佐竹家の不和はそれ自体がそれで完成している。事件もそれ以上の不和もなくて現状が維持されるならそれは幸福かもしれない。なにかしら打開することを目指すにしても逆噴射があるかもしれない。ま、冒頭の事件は物語のキッカケ、かつオマケ程度だったわけだけど、それなら主人公はなんのためにいたんだろうね? とかね。